肥沼信次(こえぬまのぶつぐ)ドイツ人に敬愛を受けた医師の生涯とは?
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肥沼信次(医者)の経歴や業績は?ドイツでは記念杯や道路の名前にまでなっていた!https://t.co/0h0DGEiJ06#肥沼信次 #世界ナゼそこに日本人 #テレビ東京 #リーツェン pic.twitter.com/ZZHxTiZqzT
— のりさん (@nori_star_) 2019年3月3日
生年月日1980年明治41年10月9日生まれ
出身東京都八王子市
父親は外科医で名前は肥沼梅三郎そして
母親の八ツさんの間に次男として生まれました。
地元の高校(現在の立川高校)を卒業しています。
父親と同じ医師を目指し
日本医科大学から
東京帝国大学放射線研究室の進みました。
「数学の鬼」誰よりも数学に熱中する様子からそう呼ばれるようになりました。
いつもドイツ語で書かれた高等数学の原書を読み
数学の先生からも質問を受けるほど数学が得意だったそうです。
信次は初めから数学が得意だったわけではありません。
むしろ、不得意でしたが数学の面白さを知ってからは
引き込まれて行ったと言えます。
その頃に来日した物理学者アルバート・アインシュタインの存在も
数学熱を一層高めたようです
ポーランド出身のキュリー夫人に憧れを抱いており
当時のドイツは、世界に名だたる医学先進国。
信次の思いは日ごとに強くなって行った感がありますね。
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第二次世界大戦後のドイツで医療活動に尽力
937年昭和12年にドイツに渡り
ベルリン大学医学部放射線研究室の客員研究員になっています。
ベルリン・フンボルト大学医学部で東洋人として初の教授資格を取得。
日本大使館からベルリン在留の日本人に対して帰国指示が出されしたが
信次の姿はありませんでした。
夫を亡くし、5歳の女の子を抱えたシュナイダー夫人に同情して
ベルリンから、疎開先へと向かっていたそうです。
これも定かではありませんが。
伝染病医療センター初代所長となり、チフス・コレラなどの疾病対対策に
力を尽くしました。
第二次世界大戦終結後のドイツでは最悪の衛生環境のため伝染病が
蔓延していました。
東ドイツのリーツェンという町で発疹チフスの治療のため
献身的な医療活動をして多くのドイツ人の尊い命を救いました。
凄まじいチフスの蔓延の中
ドイツの方たちが今でも忘れずに語り続けてくれるほどの功績を残しました。
昔は本当に多くの方が昔は本当に多くの方が伝染病のチフスで亡くなっています。
そんな中肥沼信次も病に倒れてしまいます。
信次に薬を与えようとしますが、他の人に回してくれと苦しいのに
最後まで病人の事を思いやっていたのです。
市民活動支援センターに飾れています。多くの方の目に留まり関心を持って頂きたいです。 pic.twitter.com/OqhbeFW0Ll
— ドクター肥沼 (@doctorWriezen) 2016年6月4日
日本の桜を見たい
この言葉が最後のことばでした。
遠い異国の土地で母や兄弟にも会えずどんなにか
無念だったでしょう。
日本におくった便りは空襲で消滅し何も残ってないそうです。
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まとめ
何十年が経った今でもドイツの人は肥沼信次医師の恩を
忘れてはいません。
「おじいちゃんを助けてもらわなかったら、今、ここに僕はいないんだ。」
そう話す少年の言葉に胸がいっぱいになりました。
この偉大な肥沼信次(こえぬまのぶつぐ)医師を忘れないで行かなくてはと
私たち日本人は思います。