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日本とアメリカの野球界で活躍した松井秀喜さんが、2月10日から巨人の宮崎春季キ

ャンプで4日間臨時コーチを務めます。石川県能美市出身、星稜高等学校時代からゴジラ

の愛称で親しまれた彼の現在の仕事などを調べてみました。

 

松井秀喜さんの現在は?

 

松井秀喜さんはニューヨーク「ヘリテイジ・アット・トランププレイス」の

最上階にあるペントハウスを1,050万ドル(日本円で約12億)で購入して住んでいます。

ご家族は奥様とお子様(息子)が二人の四人家族です。

息子さんのアッシー君をしていると微笑ましいお話しもありましたね。

 

 

2015年3月よりMLBのニューヨーク・ヤンキースでGM特別アドバイザーを務め

ています。

 

仕事はマイナーリーグの若手の指導です。

野手のバッティングが主であり、投手も見て欲しいとの要望もあるそうです。

球場が片道2時間かかるくらい遠く、往復4時間は運転好きでも遠いと感じているようです。

月の半分ほど行っています。(シーズン中の4月から9月の間だけ)

 

同じ年にNPO法人『松井55ベースボールファンデーション』を設立し代表を

務めています。

2024年1月1日午後4時10分石川県を襲った能登半島地震でその被害の大きさに

心を痛めた松井秀喜さんは、現役時代に応援して貰っていた自分が今度は応援をと

球団のチャリティー活動への参加や、支援活動を行って行くそうです。

 

出身地能美市を通じて義援金1千万円を寄付しています。

NPO法人『松井55ベースボールファンデーション』からも1万ドル(約147万円)

を寄付しています。

 

巨人が球団OBの松井秀喜氏を春季臨時コーチに!

2016年には坂本勇人選手、2018年には岡本和真選手を指導しました。

松井氏のワンポイントアドバイスは具体的で分かりやすいとチーム内でも評判。

 

坂本選手はフォームを大改造、シンプルな打法に戻り、『軸足』を強く意識した結果、

打率.344で自身初の首位打者となった

坂本選手はヒントをくれた松井氏に感謝していました。

 

岡本和真選手は、「軸足打法」を伝授され、20、21年に2年連続で本塁打、打点の2冠を

獲得しています。

 

2024年は秋広優人内野手(21歳)に期待が寄せられています。

何と言っても2022年より背番号「55番」の選手です。

身長200㎝、体重95㎏の恵まれた身体の持ち主、松井氏の指導を受けて

坂本勇人選手、岡本和真選手のように成長を遂げてくれる事を祈りたいと思います。

 

松井秀喜さんの生い立ち

 

1974年6月12日に石川県能美市で誕生しました。(現在49歳)

生まれたときの体重が3,960グラムの大きな赤ちゃんでした。

家族は両親とお兄さんとの4人家族です。

野球はお兄さんが野球をしていた事から5年生の時「根上少年野球クラブ」に

入りました。

小学1年生の時「根上少年野球クラブ」に入ったのですが、幼過ぎて監督に

もっと大きくなってからネとやめさせられた過去があり、悔しい思いをしたそうです。

 

又、小学3年の時から町の少年柔道教室にも通い始めています。

能美郡大会で優勝、石川県大会では3位に入り、国体強化選手にも選ばれていた。

 

柔道の他にわんぱく相撲大会でも活躍していた

体格にも恵まれて何でも出来た子供だったようです。

 

スポーツだけでなくピアノの演奏も出来るなんてとビックリしたものです。
お兄さんと連弾を披露した事もありました。

 

 

星稜高等学校時代の松井秀喜氏

 

能美市立根上中学校を卒業後星稜高等学校進学し野球部に入部。

中学時代は身長170㎝、体重95㎏で捕手をつとめ、3年から投手(兼三塁手)に

転向しています。

 

高校1年生から4番を打ち「北陸の怪童」「星稜恐怖の1年生4番」と知られるように。

5番打者には金沢市出身で2学年先輩の村松有人さんがいました。

 

松井秀喜と言えば明徳義塾先発投手の河野和洋から受けた5打席連続敬遠があま
りにも有名です。

 

高野連が急遽記者会見を開くなど、社会問題にまで発展した試合で今でも鮮明に覚えています。

 

当日、各テレビ局は話題で持ち切りでしたね。

 

 

星稜高校時代の松井秀喜と言えばこの写真ですね。

バットを構える姿が如何にも彼らしい。

執拗な敬遠を受けても態度を変える事なく1塁に走って行く松井選手は素晴らしかったです。

 

根上中学時代の松井選手は敬遠されるとバットを投げ捨て相手を睨みつける態度の生徒でした。

それを厳しく指導してくれたのが根上中学校教諭の高桑充治コーチでした。

後に今の自分があるのは高桑充治コーチのお陰と感謝していました。

良い師に巡り逢えた事が世界の松井選手を生んだのですね。

高桑コーチは同校の監督であった山下智茂氏の教え子でした。

 

 

松井秀喜が所属した球団と選手歴調べ

〇 読売ジャイアンツ  (1993年~2002年) 長嶋茂雄監督からの電話を受けて入団を決意。

 

〇  ヤンキース (2003年~2009年) 時代にワールドシリーズ優勝を経験しアジア人初のMVPを受賞!

 

〇  エンゼルス (2010年) ユニホームの色から「赤ゴジラ」と呼ばれていました。

 

〇  アスレチックス (2011年)年俸425万ドル(当時のレートで3億5700万円)で1年契約でした。

 

〇 イズ (2012年) 2012年4月30日にタンパベイ・レイズとマイナー契約を結びました。

 

〇 ヤンキース(2012年)

 

 

松井秀喜ベースボールミュージアム

 

国民栄誉賞の受賞時に贈呈された金バットや記念品、トロフィーが展示されています。

数多くの賞を受けていてビックリしました。

沢山の賞状やトロフィーも展示してありました。

興奮しながら舘内を見学した事を思いだしました。

あたたかい雰囲気の館内で考えられながらお客様をもてなして呉れてると思いました。

松井秀喜ベースボールミュージアムには、2015年ヤンキース時代の友デレク・ジーター

訪問したニュースを見ました。

にこやかな笑顔が素敵な男性でした。

松井さんも終始嬉しそうにお持て成ししていた姿が印象に残っています。

 

まとめ

日米でコジラの愛称で愛され続けた松井秀喜さんを、取り上げてみました。

優しい心の持ち主の松井さんは、石川県人として誇らしい男性です。

今後もご活躍下さい。